コピーのコピーのコピーで劣化
記憶ってどうしてなくなってしまうのだろうか
生きていくためにいらなくなったものを精査して消えていくのだろうか
容量がいっぱいですと言われたデータフォルダを最初から最後まで見ていって
いらないものを少しずつ消していくそんな作業が行われているのか
だとしたら今もある昔のしょーもない思い出は精査された上で残ってる意味のある記憶なのだろうか
そもそも消えてしまったデータは
消えた時点で大切なものだったのか判断できなくなるものだ
携帯が壊れた時携帯を買い換える時
写真などのデータはバックアップとってありますか
と聞かれる
バックアップとるほど大事な写真なのか
バックアップとれなくて悔やむ写真はあるのか
1枚消えた写真がなんの写真なのか覚えてる人はいるのか
こんな写真あったと思うんだけど
って思って見つからなかったら前に消しちゃったのかな
記憶違いなのかなって思って終わるだけ
すぐに諦めがつくというか
諦めるしか他ない
過去のデータは消えた時点で
絶対に取り返せないのだ
目にも見えない頭の中の思い出は
曖昧すぎて
誰にでも偽造できて
自分の記憶なのに自信が無い
そのくせ覚えているんだからそうなのだろうという曖昧な自信もある
その面写真というのは絶対的な過去だ
それでもバックアップとるほどの価値があるかというのは
過去になって見なきゃわからなくて
写真を撮った今は目の前にあって何度でも撮れる写真で写真としての価値はない
だったら今目の前にあるものを目に焼き付けて頭の中に入れる作業の方が大事なんじゃないかと思う
カメラにおさめて
思い出を写真に頼って
記憶に残らなそう
写真なしでは思い出せない思い出になってしまいそうで
写真は嫌いだ
その時の興奮で写真を撮りたくなって
2.3日写真を見返して
楽しかったよかったって見返す
そんなことを繰り返して
スクロールしなきゃ見れない位置に埋もれた時点で
写真を撮った時の感動は目の前でそれを感じていた時に比べて確実に落ちる
それが
文字だとどうだろうか
その時の気持ちが
何年後になってもその時の言葉で残っている
気がする
でもきっと
何年後かに見た文字というのはこの時の自分なーにいってんだ
って思うんだろうな
でもそんなこと思ってたんだってわかるのはなかなか楽しいもので
よかわからない文字起こしが辞められないでいる
ふとした時に溢れ出す起承転結のかけらもない文字を書き出すのにちょうどいい落書き帳、いや裏紙だと思う
中学の塾でやったコラムを要約する作業
もしこの記事を要約するのなら
難しいのではないかと思う
文字に起こしたくなった時点で書いている本人からすると全部大事なのだ
何が言いたいかって
わからない
とりあえずなんか書き残したくなったってことよ